梅の剪定作業も無事終了し、後は花が咲き、実がなるのを待つばかり。
剪定して仕上げた木は、1月30日から当地の「梅祭り」にて公の鑑賞にさらされることになります。
(本年の開花状況はほぼ平年並みと思われ、一月下旬には「十郎」は満開。「南高」は8分咲きの様相であると思われます。)
我々の作業も梅に続き、キウイフルーツの剪定に入りました。
キウイの剪定の要諦。
キウイはぶどうや柿と同じく、昨年実がなった部分より内側には新梢が発生せず、実もならない。
年々結果部分は枝の先端へと移り、木はどんどん大きくなると共に内部は空洞化してしまう。
そこで古い枝の基部から発生した”突発枝”を生かし、貧弱な母枝を枝先端部から順に除いていく。残す芽の数は一平方メートルにつき25が最適。
これがキウイ剪定の"教科書的解釈”となります。
剪定して仕上げた木は、1月30日から当地の「梅祭り」にて公の鑑賞にさらされることになります。
(本年の開花状況はほぼ平年並みと思われ、一月下旬には「十郎」は満開。「南高」は8分咲きの様相であると思われます。)
我々の作業も梅に続き、キウイフルーツの剪定に入りました。
キウイの剪定の要諦。
キウイはぶどうや柿と同じく、昨年実がなった部分より内側には新梢が発生せず、実もならない。
年々結果部分は枝の先端へと移り、木はどんどん大きくなると共に内部は空洞化してしまう。
そこで古い枝の基部から発生した”突発枝”を生かし、貧弱な母枝を枝先端部から順に除いていく。残す芽の数は一平方メートルにつき25が最適。
これがキウイ剪定の"教科書的解釈”となります。
それにしても樹幹内部の突発枝の混雑具合はどうだ。
それぞれ発生した場所から大きく離れ、伸びたい方向に、右へ左へ上へと躍動している。
枝各々には木全体の調和を保とうとする意図はなく、特に斜面にある枝は、それぞれ先を争うように上へ上へと伸びてゆく。
木自体、ひとつの大きなビジョンを持って各枝を制御しているわけではなく、ひとつの木の中にも競争の原理、弱肉強食の自然が生きているようなのだ。
樹形を保ったまま、最大限に結果させることを優先する人間の都合と、
開けた、日の当たる場所へ枝を伸ばし、生き延びることを最優先する植物の都合。
その衝突をなだめることこそが農という行為の本質なのだろう。
人間は結実の望みの薄い古い枝を除去し、新梢の発生する可能性の高い枝を棚の一面に展開したいと願う。
キウイの木はおのおの枝の統制もかまわず、四方八方に伸び続ける。
キリキリと悲鳴をあげる突発枝を、開いた空間へと曲げようと苦労していると、これはかなり反自然的な行いなのかもしれないなどと思ってしまう。
キウイの剪定を通して、ワタクシの幼少からの自問が再びやってきた。
人間は都合のいいように自然を捻じ曲げているのではないのか。
そのシュが持つ特性を過剰なまでに活かし、最大限の結実を目指し、その生殖活動をねじ曲げ、
なだめ、すかし、人間はその植物のおこぼれを頂戴しているにすぎない。
”万物の霊長:すべての物事を支配している”などという不遜な気持をすて、自然に縋りつくはかなくもろいちっぽけな存在としての人間を知覚すべきなのだ。
ところで・・・
ワタクシが剪定をしている樹なのですが、教科書的な仕立て方とは幾分違う様相を呈しています。
理想としては・・・6メートル×2の両翼にまっすぐに主枝を配し、亜主枝として各4本を主枝と直角に、水平にしつらえる。
しかしキウイフルーツの特性として「主枝上に出る立ち枝、そしてそこから翌年に発生する内向枝が蔓延りやすく、そう云う「樹形を乱す」枝ほど「生産者にとって魅力的な多産な枝」であることが多いという事実があります。
その結果・・・

こういう立ち枝・内向枝と日々格闘することとなります。
抑えるところは抑え、収穫高減少をまねかないぎりぎりの線で折り合いをつけていく。
そういうことを毎年続けているのです。
四方八方から伸びた枝その健康状態を見極め、時に樹づくりを考え、優先させるものを選び一定の面積に母枝を納める。それは匠の技が必要であるというばかりでなく、多分に”空間設定のセンス”が要求されるものでもあります。
できれば仕事を難しいものにしたくはない。
樹形をシンプルに保つようにしたい。
それは剪定の労力を減らすだけではなく、日当たりを良くし、落果を防ぎ、実の品質を向上させる事にもつながります。

どの分野においても就業形態に終身雇用の原則は崩れ、農の現場においても従事者の高齢化が進み、若年層の第一次産業回帰現象は一時的に話題にはなりますが、それも安定し定着したとは言いがたいものです。
徒弟制度的な旧来の技の伝承よりも、たとえ都市生活者が援農制度により就業する場合においても行うことが可能であるように、技をマニュアル化し、初心者でも御しやすい、文法に則った果樹の仕立て方を考える段階に来ているのです。

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それぞれ発生した場所から大きく離れ、伸びたい方向に、右へ左へ上へと躍動している。
枝各々には木全体の調和を保とうとする意図はなく、特に斜面にある枝は、それぞれ先を争うように上へ上へと伸びてゆく。
木自体、ひとつの大きなビジョンを持って各枝を制御しているわけではなく、ひとつの木の中にも競争の原理、弱肉強食の自然が生きているようなのだ。
樹形を保ったまま、最大限に結果させることを優先する人間の都合と、
開けた、日の当たる場所へ枝を伸ばし、生き延びることを最優先する植物の都合。
その衝突をなだめることこそが農という行為の本質なのだろう。
人間は結実の望みの薄い古い枝を除去し、新梢の発生する可能性の高い枝を棚の一面に展開したいと願う。
キウイの木はおのおの枝の統制もかまわず、四方八方に伸び続ける。
キリキリと悲鳴をあげる突発枝を、開いた空間へと曲げようと苦労していると、これはかなり反自然的な行いなのかもしれないなどと思ってしまう。
キウイの剪定を通して、ワタクシの幼少からの自問が再びやってきた。
人間は都合のいいように自然を捻じ曲げているのではないのか。
そのシュが持つ特性を過剰なまでに活かし、最大限の結実を目指し、その生殖活動をねじ曲げ、
なだめ、すかし、人間はその植物のおこぼれを頂戴しているにすぎない。
”万物の霊長:すべての物事を支配している”などという不遜な気持をすて、自然に縋りつくはかなくもろいちっぽけな存在としての人間を知覚すべきなのだ。
ところで・・・
ワタクシが剪定をしている樹なのですが、教科書的な仕立て方とは幾分違う様相を呈しています。
理想としては・・・6メートル×2の両翼にまっすぐに主枝を配し、亜主枝として各4本を主枝と直角に、水平にしつらえる。
しかしキウイフルーツの特性として「主枝上に出る立ち枝、そしてそこから翌年に発生する内向枝が蔓延りやすく、そう云う「樹形を乱す」枝ほど「生産者にとって魅力的な多産な枝」であることが多いという事実があります。
その結果・・・

こういう立ち枝・内向枝と日々格闘することとなります。
抑えるところは抑え、収穫高減少をまねかないぎりぎりの線で折り合いをつけていく。
そういうことを毎年続けているのです。
四方八方から伸びた枝その健康状態を見極め、時に樹づくりを考え、優先させるものを選び一定の面積に母枝を納める。それは匠の技が必要であるというばかりでなく、多分に”空間設定のセンス”が要求されるものでもあります。
できれば仕事を難しいものにしたくはない。
樹形をシンプルに保つようにしたい。
それは剪定の労力を減らすだけではなく、日当たりを良くし、落果を防ぎ、実の品質を向上させる事にもつながります。

どの分野においても就業形態に終身雇用の原則は崩れ、農の現場においても従事者の高齢化が進み、若年層の第一次産業回帰現象は一時的に話題にはなりますが、それも安定し定着したとは言いがたいものです。
徒弟制度的な旧来の技の伝承よりも、たとえ都市生活者が援農制度により就業する場合においても行うことが可能であるように、技をマニュアル化し、初心者でも御しやすい、文法に則った果樹の仕立て方を考える段階に来ているのです。
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