春分の日お墓参りに行ってきました。
お寺は横浜市泉区にありすぐ隣は大和市です。そこに団地があり渋谷中学校があります。
(両者に関連する有名人に近藤真彦氏がおります)昭和40年代、経済発展の最中活気・賑わいを見せていた所ですが、今は寂れ当時とはまた違った様相がみられます。

日本語を含め六カ国の言語で書かれた注意書きです。この団地の住民構成がわかる図です。
団地周囲の道にはポツポツと商店があり、今では食堂・食材スーパーなど異国情緒漂う所となっています。


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続き以下は私の個人的思い出です。レストラン「Saigon」とは関係の無い記述です。
お寺は横浜市泉区にありすぐ隣は大和市です。そこに団地があり渋谷中学校があります。
(両者に関連する有名人に近藤真彦氏がおります)昭和40年代、経済発展の最中活気・賑わいを見せていた所ですが、今は寂れ当時とはまた違った様相がみられます。

日本語を含め六カ国の言語で書かれた注意書きです。この団地の住民構成がわかる図です。
団地周囲の道にはポツポツと商店があり、今では食堂・食材スーパーなど異国情緒漂う所となっています。

お寺近くのベトナム料理店へ。見繕っていたところは臨時休業でした。代替としてその並びの「Saigon」という店に入りました。
店内テーブル席のみ4×5位。先客は男性単騎のみ。後客なし。
おそらく昼は暇なのでしょう。夜になると団地在住の同胞がここに集い賑わっていることが予想されます。
カウンター端に座っていたオヤジさんが対応してくれました。この店のオーナー兼マネージャと思われ。奥の調理場には女性がおりました。妻兼料理人でしょうか(未確認)。
ご飯の上にスペアリブの焼いたもの、端に紅白なますのような酢漬けの野菜(大根、にんじんの細切り)キュウリのスライスが載っています。
スペアリブは甘辛な味付け。特有の脂身も多く臭みもあり自分の好みとしては今ひとつ。
スイートチリソースをつけても余り合わないので、肉はそのまま味わう事に。スプーン・フォーク・ナイフでちまちまやって行くのももどかしいので、手づかみでむしゃぶりつきました。
ご飯は短粒種で日本米っぽい奴。炊き加減は堅め。どうも味的に淡泊なのでニョクマム少量と卓上壺入りの薬味(サテトム?)を加えてみる。これが大正解!おいしくなった。東南アジア的に変わった。
ご飯は短粒種で日本米っぽい奴。炊き加減は堅め。どうも味的に淡泊なのでニョクマム少量と卓上壺入りの薬味(サテトム?)を加えてみる。これが大正解!おいしくなった。東南アジア的に変わった。
所謂「コムタム」ですね。米がおいしくしっかりしているので当地のものとは印象が違います。全体量はかなり多め。満腹感は得られます。
味付け等は本場のものなのかよくわかりません。スパイスの強烈な芳香とかエスニック感満載の食材と言うものはなく、香りもおとなしめでしたし、、、(それがベトナム料理なのだと後に知りましたが)
オーナーの親父さん。私のすぐ横でカウンターに座りネット動画を視聴しておりました。
調理が一段落すると厨房から、あるいは親父さんから?甘い芳香が漂ってきました。親父さんの整髪料か、はたまた部屋の芳香剤なのか?その甘い匂いは日本ではなかなか触れることのできないもの。
時に香りは味覚よりもダイレクトに記憶に訴えかけるという性質があります。このとき突然のように幾多の情景が甦ってきました。ベンタン市場、サイゴン川、シクロ、オートバイ。娼館、深夜の空港、レストラン「hna hang dong pho」。
オーナーの親父さん。私のすぐ横でカウンターに座りネット動画を視聴しておりました。
調理が一段落すると厨房から、あるいは親父さんから?甘い芳香が漂ってきました。親父さんの整髪料か、はたまた部屋の芳香剤なのか?その甘い匂いは日本ではなかなか触れることのできないもの。
時に香りは味覚よりもダイレクトに記憶に訴えかけるという性質があります。このとき突然のように幾多の情景が甦ってきました。ベンタン市場、サイゴン川、シクロ、オートバイ。娼館、深夜の空港、レストラン「hna hang dong pho」。
白日夢を見るような記憶・映像の羅列、一種の恍惚状態に陥ったかのような強烈な懐かしさと、打ちのめされるような悔恨。サイゴンの灼熱と退廃・・・意味もなくそんなフレーズが浮かび、ちょっと苦いものを覚えました。
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続き以下は私の個人的思い出です。レストラン「Saigon」とは関係の無い記述です。
JAL便が成田、ホーチミン直行便の運行を開始し、日系のホテルレジェンドが建ち、ベトナム観光が本格化していった時期のことです。
旅行添乗員を生業としていた頃、わけあって1週間ホーチミン滞在を余儀なくされたことがありました。当時観光旅行で何度か来ていましたが、生活者の視点でこの街を見たこともない。かつての放浪時代のように行く先も決めずに彷徨い、好奇心の赴くままにいろいろ回ってみたかったのですが、仕事で来ているのだという気持ちが絶えずつきまとい、自由に奔放に振る舞うことは出来ませんでした。
滞在していたレックスホテルの近くに(マンダリンオリエントだったか)、当時最高級のホテルがあり入り口から離れた場所にいつも一台のシクロが停まっていました。ホテルを出て歩き始めるとそのおっさんは決まって私に声をかけ、こちらも無視すればいいのに曖昧な笑いを浮かべたり、それが数日続くとなんかおっさんが親しげに近寄ってくるようになりました。
「・・・ドルでイイから乗らないか」とのことです。
タイではトゥクトゥク、フィリピンではジプニーと、現地の庶民の足には「乗り倒してきましたが、そういえばベトナムにおいてこの乗り物に乗ったことがまだありませんでした。
軽い好奇心もあったのですが、このおっさんに少しは稼がせてやってもいいかな、、、なんて気持ちもあったのです。
しかし乗ったのは間違いでした。ぼったくりツアーのスタートです。
おっさんに連れて行かれたのはあるレストランでした。客席には金持ち然とした西洋人ばかり。メニューはあらかじめセットされたもので、私がいつも食しているものの10倍ほどの値段がついていました。係の娘さんにごね始めると店主とおぼしき男性が出てきました。彼はかなり困惑しているようでした。
シクロのおっさんは表で待っていたのですが、私がすぐに出てくるとなんだ食わないのか?と本心から不思議そうな顔をしておりました。
かつての私であればここでシクロを降りおっさんになにがしか払って別れたことでしょう。
しかしおっさんは悪びれもせず「次はおんなはどうだ。日本人は皆行くもんだ。行こう行こう」と責め立てます。何度も断りましたが、彼は諦めない。そのしつこさといったら、、、結局どうなるか見てみたいと思ってしまいました。その先は秘密w
なんか昔の自分と決定的に違ってしまった。世界を放浪していたときには何せ金がなかった。金の消費は旅の短縮に結びついていたので、その吝嗇は甚だしかった。しかし出費を削ることにより、楽に・便利にという観点でシステム化された”観光”では見ることが出来ないものを逆に見ることが出来た。
ノイシュバンシュタイン城ではバスにも馬車にも乗らず歩いて行った。そのとき裏道を通ることが出来、渓谷に架かる橋から城を眺めることが出来た。
西安の大雁塔にものぼった。当時鐘は機能しておらずテープで音が流されていることを知った。
オーストラリアのドライブでは1万5千キロを走破し主にキャンプグラウンドで寝た。星が地平線すぐ上にあることに感動した。暑さにたまらずテントを出て屋外で眠っているとカンガルーがすぐ隣で草を食んでいた。
観光業に従事しなまじ金を持ったが故、何でも見てやろうと活発に動き回った若き日のそういう姿勢はなくなってしまったようです。
旅をし”ハートオブゴールド”を求める求道者であった若者が物見遊山の観光客になってしまった。観光という産業のシステムに組み込まれてしまった。
シクロのおっちゃんにも生活がある。そうやって人のことを考える余裕が出来たとも言える。しかしそれは悪弊を助長しているだけにすぎない。
それを思ったときの苦さは並大抵のものではなかった。
その晩近くの仮設露店で痛飲し、正体をなくし翌朝路上で目を覚ますことになった。
自分の中で何かが終わった瞬間でした。
This is the end of inocence.



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