またしても昼飲みの流れでラーメン屋へ。
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14時過ぎの入店。先客なし、あと客一名。ランチのピークタイムは混んでいたのでしょう。ウェイティングボードにはたくさんの記名がありました。
店内、引き戸の和調とは異なりバー的スタイリッシュ?な造り。入り口右側と正面にアイアンの意匠を多用した”スタイリッシュ”なカウンター席10ほど。テーブル席は4×2 2×1程。右側カウンター真ん中に案内され暫し待ちます。すぐに一杯が登場しました。
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金目鯛塩らぁ麺950円也。
麺は細ストレート。全粒粉入りの堅めゆで加減。ざらっと舌に触れるその食感がいいものです。
綺麗に揃えられたいわゆるブラジル風?です。
スープは一口目でふわっと金目鯛が香るもの。塩だれも効き出汁感は強いものです。
最初に思ったこと~さてこれどうやって食べようか、、、
結局麺をほぐし引きずり出すことになるのですがその過程で載せものが一旦スープに埋没してしまいました。
金目鯛の炙り身はトップに載っていたのですが、薄切りの豚チャーシューと融和し、最後は魚とチャーシュー片が混ざって沈殿してしまいました。その舌触り、食味が同一なんですよ。肉があり魚がありではなくぼそぼそとしたそぼろ状に均一に攻めてくる感じ。低温調理とおぼしき豚の薄切りはそれほど存在感が希薄なもの。いっそのことチャーシューなしで魚を多くしたほうがいいのではと思ってしまいました。
大葉はちょっと多すぎwこれ箸でつまむと全部塊で持ってきてしまうので、レンゲを押し当てほぐして少しずつ食しました。タマネギは大葉との調和があっていい役割を演じていますが大葉ありきの食材かもしれません。
その他穂先メンマが載っていました。(こういうラーメンには穂先部位がいいですね。でもかみ切れないので大概一口で食らうことになってしまいますが。)
金目鯛のあぶりは最後まで風味を保ち、香りを添加してくれるのですが、際立つものではなく主役にはなっていないような感じです。スープにおいても魚介は最後まで消えずおいしいものですが、脇役であるはずの助演俳優(大葉さん)が出しゃばりすぎて作品の主題をぼかしてしまった感あります。
魚だけでらーめんスープは作れないでしょうから、鶏などの下支えがあると思うのですが、魚を前面に出したラーメンってやはりむずかしいものがあるのでしょうか。

PS.以降は表題店とは関係ない記述です。有益な情報は何もありません。

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マツコの番組にも出ていたという食の評論家がいます。
結構ラーメンについても語っているので目についてしまうのですが、ラーメンもブランディング?が無ければ1000円という値段をつけることは出来ないなどと語っています。
そういう風潮が現在のラーメン業界の素材語り満載、うんちく過多状態を生んでいるのでしょう。
今は高いレベルでどのラーメンもおいしくなっていますが、結構皆画一的な感じで”何かに突出している”とか”個性に溢れた”というようなものが少なくなってきているように思います。

素材を列挙すればそれがブランドになるという誤った考え方があります。
今ではらぁ麺という看板を外し嬉々として報告しているお店がありますが、そこではこれだけ謳っています。
スープ:
豚、鶏、昆布、ホタテ、野菜などを使い、9種類の醤油をブレンドした醤油だれを使用。雑味のないスープが特徴です。
麺:
国産小麦をブレンドした麺を使用。内モンゴル産天然由来のかんすい、沖縄の塩「ぬちまーす」で小麦の味を引き出しています。
チャーシュー:
霧島高原純粋黒豚、TOKYO X、天城黒豚などのロースとバラ肉を使用しています。
その他:
海苔は有明産の一番摘み、ネギは九条ネギを使用しています.
わんたんは純粋金華豚のバラ、山水地鶏を使用しています。
水は逆浸透膜システムでろ過したピュアウォーターを使用しています。
ごはんには山形県酒田市の氷河米ミルキークイーンを使用しています。
鰹節には指宿産一本釣り本枯れ節を使用しています。
丼は有田焼の特注丼を使用.しています。
たとえ値段が高くなっても何度でも食べたいラーメンが私にはあります。
今では素材とか料理方法などわかるようになりましたが、初めは素材・うんちくに惹かれて訪問したわけではありません。食評など見ず、何の先入観もなしに訪れ何度か食してみる。行くたびに味が違うのは論外ですが、一応すべての味を試して見てそれが自分の好みに合うかどうかだけの話です。
何度も持ち出しているたとえですが、最近界隈のラーメン屋巡りでまた思い出してしまったので引いておきます。
第9回新潮新人賞
これまで何度も新人賞のジャッジを勤めたけれど、新人には鮮烈の一言半句があればそれでいいという価値観は動かない。構成、レトリック、発想などは修練によってどうにかなれるものがあるけれど修練でえられないものが一片、閃いていたら、新人はもうそれでいいのだと思う。
その一言半句が作品の中心にあろうと辺境にあろうと問題ではない。意識して獲得できたものであっても無意識的に獲得できたものであってもかまわない。あとになってその作品を思い出すときの核になる一言、また半句があればいいのである。千枚の長編を呼んでもかわらの砂利のような言葉ばかりで過ぎてしまう例が実に夥しいのだから、これは至難のことである。
昭和52年8月1日「新潮」開高健
料理って書かれたレシピがなくとも、あの素材と調味料と調理方法でこういう味になるって言うのが大抵わかるものですよね。調理人は想像力を働かせ一つの料理を作り上げるのだけれど、同じ素材同じ条件でもおいしいかどうか調理する人間により違ってきます。それが才能でありその店の真価でもあるのでしょう。
文章もそうですが食の分野にも鮮烈な一言半句がなくなって久しいものです。
かつては確かに存在した”作品を思い出すときの核になる一言、半句、それが再訪の意思に至るのですがそういうものに巡り会うことがほとんど無い。
そろそろ外食産業も終わりですかね。生活に余裕のある方が金に糸目をつけずと言うならばいいものはいくらでもあるのでしょう。でも米価格高騰・野菜高騰・諸物価高騰・エネルギー代高騰などによる値上げの嵐。産業構造的に大衆が気軽に利用できるものではなくなってきていると言うのが実情なのですから。