Cuernavaca

神奈川県南西部 食と生活

雑記

3月20日は母の命日です。
その母は生前、スポーツ中継(野球、特にGファン)と共に懐かしのメロディーなどの番組を好んで視聴しておりました。
その母曰く、紅白歌合戦、もう何が何だかわからない。跳んだりはねたりしてちっとも面白くない。
歌と言えるのはギリギリスマップくらいまでだと。
母がこの世を去る少し前、はやっていた曲が「千の風になって」でした。

我が家の墓は横浜市にあります。そこに父と母の骨があります。
魂はどこにあるのかわかりませんが、そこに終始しがみついているような両親ではないのでもう昇華したか、風のように吹き渡っているのか、あるいはグアムやカナダ辺りを旅行しているのかもしれません。
本日お墓参りに行くつもりです。もとより魂の問題ではなくただ感謝を伝えるそのよりどころがお寺であり墓であるからです。

王様というパロディー歌手がいました。
ディープパープルやレッドツエッペリンの歌詞を日本語に”直訳”して歌ったところ一部マニアに受け、反響は大きかったものです。
しかしパロディーはその素材が確たるものであるからこそ楽しめるのであって、レインボウ、Kiss、ヴィレッジピープルまで手を伸ばしてしまってはちょっとやり過ぎって感じ。そのうち題材に困ったのでしょうか彼は諧謔者であることを止め、自身の思想をあらわす曲を作りました。
「千の風になって」をモチーフに自身の仏教的下地に基づき「お墓参りに行きましょう」お墓には骨があり魂はそこに返ってくると訴えます。
「万の土になった」
私自身葬式無用 戒名不要(用)と言う立場なのですが、無信仰者であった父母が死んでなおその先に魂の安楽地を求めたことに関しては理解しているつもりです。
老いるとそれがわかるようになってくる。(私個人としては依然、遺骨には魂は宿らないと信ずるものですし、出来れば自身の亡骸は粉にして畑の肥やしにでもしてほしいと思っています。法的にそれは難しいことだと言うことはわかっていますが。)

この精神が土に還ると言う思想、実に日本的です。
お盆、春分、秋分と定期的に故人を敬い懐かしむ風習があります。
現代日本には仏壇をそなえている家庭は多くはなく、忙しい現代社会において故人の魂と対面する機会は減ってきています。
先人の功績を想い、自身への訓戒とすることは大切なことです。
過去を顧みることは自身の現在地を見つめることにもなります。
王様、あなたは正しい。

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かつて日本に遊牧民っていたのだろうかと考えてみる。
まず”日本、遊牧民”でググってみる。言うまでもなくまともな答えは得られない。
なんか電通のビジネス視点ばかりの変なサイトがヒットしてしまうw多拠点生活と遊牧とを混同している。それにしてもここ最近のグーグルの検索精度、酷くなっていると思いませんか?
大和国では基本に定住があり、田畑を用い農耕で糧を得ていた。放牧であっても家畜を食わせる場所を年々変えるだけ拠点は同じ、定住していたといえる。狩猟を生業とする”またぎであっても同じ。
一方根っからの遊牧民であるモンゴルはどうだろうか。
巨匠開高健さんがイトウ釣りで訪れたときの記録が著作「オーパオーパ」に描かれている。
彼らは移動式組み立て住居「ゲル」で生活し、定期的に移動を繰り返す。移動後には何も残っていない。すべて来たときと同じように痕跡を何も残さず去って行く。衣食住は何千年の昔と変わらず、自然を少し利用するだけで恣意的な造作、破壊は皆無である。開高氏は「徹底的に無」と表現している。
それが遊牧民の本来の姿なのだろう。
アメリカにおいてはかつてのフロンティア精神があった。今でも頻繁に移動し転居を繰り返す人も多いという。昔ブルーベリー農場視察でノースキャロライナ州に赴きそこでお世話になった方がいた。数年後名刺を整理していたらその人のネームカードが出てき、そこにはフェイスブックのマークがついていた。ページを覗いてみたら、ほんの数年後なのに全く別の地で異なった職業に就いているという事実を知り驚いたものです。
アメリカ人は人生で11度転居する。そういう統計を見た記憶があります。
そのときやはり驚きを感じたものです。
某放送局のドキュメンタリーで見たもの。
フランス人のコックが引退して住居を売り払い船を購入。妻と共に運河、河川を遡りオランダまで行くというものでした。オランダへ行ったらさてどうするのか彼らにはその先のビジョンは全くない。次にすることは川を戻るということだけ。
オーストラリアではリタイアし各地のキャンプグラウンドを転々とし生活している老人達をよく見かけたものです。
定住型農耕民族・日本人には持ち得ない、狩猟民族特有の根本思想があるのだなぁと何度も思ったものです。

では、ノマドランドの”遊牧民”達たちはどうなのであろうか
「誇り、矜持を保ちつつ現代社会を生きる術を求めて旅をしている」映画の宣伝文句でそのような表現がありました。誇りという言葉のステレオタイプで軽く言い表されていましたが、どこに誇りがあるかと問えばそれはかなり曖昧なものです。
少なくとも仕事に対する誇りはないでしょう。現代のノマドの実情は遊牧民のように生産放牧、狩猟の為に移動しているのではなく、生き延びる為に高度経済主義社会の底辺で日銭を稼いでいるにすぎないのです。
主人公ファーンの例で云えば、身内の元でそのお情けにすがることを潔しとしない、それが自身の尊厳であり誇りなのでしょうか。
独立独歩がアメリカに於ける基本理念であるから他人の庇護の元、意にそぐわない窮屈な生活を強いられるのは自身の尊厳を失うと同義なのでしょう。

経済は一度発展すると元には戻れないものです。ネバダ州であっても大規模開発された工場が閉鎖されてしまえば跡地にはいつまでも廃墟が残るだけで再び放牧が始められることはないでしょう。
彼らは高度資本主義の雪崩に巻き込まれた被災者で、互いに助け合いながら避難生活を送っているのが実情であり、ノマドランドは幻想であると言い切ってもいい。そこは互助の精神にあふれた集落であり、現代社会がたどり着いたユートピアの一形態であるという幻想です。

自然主義文学の古典「釣魚大全」やソローの「森の生活」などの思想や言葉は、混乱期になると何故かもてはやされるものとして過去に何度も”ブーム”を生み出してきました。
地震、津波、外交危機、経済破綻、衆愚政治。
円高、物価高、低賃金、米騒動。
「多くの市民は静かな絶望の人生を生きている。」
今はとりわけソローの言葉が胸にしみます。

老いて今後の生き方を模索する現在、自分の考えを文にしてまとめています。
記事森の生活につづく予定


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