ちいさな旅
銀座にて祝勝会
昨年1月から身に降りかかっていた災難
身内の負債に対し今は亡き父が連帯保証契約をなしたとされ、その法定相続人である私に弁済を求める裁判が起こされました。訴状において被告・・・(私の名)と呼び捨てにされ、シュプレヒコールのように××万円払え~と連呼され、6度にわたる準備書面の作成と8度の出廷。ただでさえ痛風で歩行困難なのに、片道2時間以上の霞が関詣でを強要され、心身ともにズタボロ(byルパン)でした。
先日結審し、その判決申し渡しによると、私への請求はすべて棄却され、被告に生じた費用は原告の負担とする旨言い渡されました。
法のプロフェッショナルである弁(護)士相手にシロウトの私が勝利したのです。ただ、この喜びをともに分かち合うものはいません。そこで父との思い出の場所で個人的祝勝会を催してみました。
父は戦後駐留米軍の小僧として働き、そのつてからGHQのレストランにコックとして雇われました。解体後目黒のボーリング施設に最初はコックとして後そろばんの腕を買われ経理として倒産まで勤め上げました。私は目黒で生まれすぐに品川に越し、物心つく頃には藤沢の公団住宅で幼少期を過ごしました。
父の仕事の関係で休日出勤が余儀なくされることが度々ありました。そんなとき父は私を伴ってささやかな「東京観光」に繰り出しました。
緑や青、黄色や赤の電車がまるで競争をするかのように並んで走る様、シートに膝立ちし窓に顔を擦り付けんばかりにして眺めるに飽くことがありませんでした。
東京タワーが視界に現れると、いつまでも列車についてくるように見えるのが不思議でした。
観光といっても美術館や博物館などを巡るものではなく、銀座へ行ってランチをいただくだけだったのですがそれは私にとって数少ない父との思い出として残っています。
銀座ライオンにて父は黒ビールを飲み私は他のメニューには目もくれず「グラタン」を食したものです。


銀座ライオン7丁目店。現在1階が昔のままのビアホールで2階がレストランになっています。
グラタンなどの「洋食」はビアホールでは提供されていないようなので仕方なく2階へ。
私の中の「その店」は広々として空間があり雑多な人々で賑わいと喧噪があったと記憶してます。
おそらくビアホールで食したのではないかと、、、
上記写真は後小田原店で撮影したものです。そのときはブログに記事を書く習慣がまだなかったので写真を撮ることはしませんでした。何より、フロアの踊り場とも言える場所のど真ん中に席を占めトイレに立つ人間の通り道であり、立ち尽くし待機する従業員の目の前で”お上りさん的行為”をするのはチトみっともないと思ってしまったからなのです。
グラタンですが確かに具は多くおいしいものでした。ビールに合うかと問われれば少し疑問は残りますが、、、もとより50年という年月の隔たりがあります。調理人は変わり、器やレシピも昔のままではないでしょう。この料理が郷愁に結びつくかと云えば、「それほどでもない」と白状しなければなりません。年月を経て私の味覚も研ぎ澄まされ、逆に感性は摩耗してしまったようです。
思い出は美しすぎて、それは悲しいほどに
そのままそっとしておいた方がいいという場合もあるようです。

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身内の負債に対し今は亡き父が連帯保証契約をなしたとされ、その法定相続人である私に弁済を求める裁判が起こされました。訴状において被告・・・(私の名)と呼び捨てにされ、シュプレヒコールのように××万円払え~と連呼され、6度にわたる準備書面の作成と8度の出廷。ただでさえ痛風で歩行困難なのに、片道2時間以上の霞が関詣でを強要され、心身ともにズタボロ(byルパン)でした。
先日結審し、その判決申し渡しによると、私への請求はすべて棄却され、被告に生じた費用は原告の負担とする旨言い渡されました。
法のプロフェッショナルである弁
父は戦後駐留米軍の小僧として働き、そのつてからGHQのレストランにコックとして雇われました。解体後目黒のボーリング施設に最初はコックとして後そろばんの腕を買われ経理として倒産まで勤め上げました。私は目黒で生まれすぐに品川に越し、物心つく頃には藤沢の公団住宅で幼少期を過ごしました。
父の仕事の関係で休日出勤が余儀なくされることが度々ありました。そんなとき父は私を伴ってささやかな「東京観光」に繰り出しました。
緑や青、黄色や赤の電車がまるで競争をするかのように並んで走る様、シートに膝立ちし窓に顔を擦り付けんばかりにして眺めるに飽くことがありませんでした。
東京タワーが視界に現れると、いつまでも列車についてくるように見えるのが不思議でした。
観光といっても美術館や博物館などを巡るものではなく、銀座へ行ってランチをいただくだけだったのですがそれは私にとって数少ない父との思い出として残っています。
銀座ライオンにて父は黒ビールを飲み私は他のメニューには目もくれず「グラタン」を食したものです。


銀座ライオン7丁目店。現在1階が昔のままのビアホールで2階がレストランになっています。
グラタンなどの「洋食」はビアホールでは提供されていないようなので仕方なく2階へ。
私の中の「その店」は広々として空間があり雑多な人々で賑わいと喧噪があったと記憶してます。
おそらくビアホールで食したのではないかと、、、
上記写真は後小田原店で撮影したものです。そのときはブログに記事を書く習慣がまだなかったので写真を撮ることはしませんでした。何より、フロアの踊り場とも言える場所のど真ん中に席を占めトイレに立つ人間の通り道であり、立ち尽くし待機する従業員の目の前で”お上りさん的行為”をするのはチトみっともないと思ってしまったからなのです。
グラタンですが確かに具は多くおいしいものでした。ビールに合うかと問われれば少し疑問は残りますが、、、もとより50年という年月の隔たりがあります。調理人は変わり、器やレシピも昔のままではないでしょう。この料理が郷愁に結びつくかと云えば、「それほどでもない」と白状しなければなりません。年月を経て私の味覚も研ぎ澄まされ、逆に感性は摩耗してしまったようです。
思い出は美しすぎて、それは悲しいほどに
そのままそっとしておいた方がいいという場合もあるようです。

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