Cuernavaca

神奈川県南西部 食と生活

仁義礼智信

言葉の乱れについて
言葉は絶えず変遷を続けています。
古来の例を持ち出すまでもなく、本来の意味を離れて誤って使われ続け、それが大勢をしめるようになると言葉は別の段階に進み、本来の意味に新しい意味を付加され、生まれ変わるのです。

最近発表されたサーベイです。
言葉の使い方といった視点において、警鐘を鳴らすものでした。
調査は今年1月から2月にかけ、16歳以上の男女約30000人を対象に行った。 
「檄を飛ばす」は、「自分の主張や考えを、広く人々に知らせて同意を求める」という意味だが、本来の意味を選択肢の中から選んだのはわずか14・6%。74・1%の人は、「元気のない者に刺激を与えて活気付ける」ことと理解していた。 
慣用句が間違った意味で流布していることに注意を促すものですが、身近な言葉が誤って使われている例は数多くあります。(役不足、的を得るなど)

先達の一言により、人生観を変えられた、ちょっとした箴言などが私を救ってくれた。
言葉は時としてわれわれに生きる力を与えてくれることもあるのです。
それは、時に一編の小説や映画に値する力を持つこともあります。
軽妙、洒脱、言葉で’かるみ’を作り出しユーモアの肥やしにすることも必要ですが、西洋世界の原初的な思想、はじめに言葉ありき。「光あれ」といってこの世に太陽が生まれたとする考えを尊重するなら、言葉の本来の意味を取り違えて用いるのは、危険ですらあります。
言葉の音列からわれわれはイメージを喚起し、思想を形作っていくこともあるのです。
言葉は決して軽視すべきものではなく、最も注意を払い日々注視していかなければならないものであると思います。

小説家など文筆を生業とする人々の大部分は、日々言葉と格闘を続け、響きを考えたり、言葉の持つイメージまで膨らませたりして言葉を選び、つけたし、削り、そんなことに汲々としています。
かれらの言葉は、今日発せられても今日だけのものでなく永遠とは言わないまでもしばらくの間残るものです。決して言葉に対しては無頓着ではいられないのです。
しかしマスメディアといわれるテレビや雑誌の分野では、垂れ流しのように言葉を浪費しているような傾向があるように思います。
今日のニュースは、明日にはもう人々の目に付くことはほとんどありません。誤った使い方が論議されることはめったになく、せいぜい投書好きの暇老人に指摘されるくらいなもんです。
最近ことに目に、耳にする気になる言葉があります。
マスメディアにより誤った使い方を植え込まれる前に指摘しておきたいものです。

「グルメ」
本来のフランス語は食通・美食家を指します。
しかしおいしい料理、またはそれに関するものに使う例が多く、英語においても例外ではありません。(レストランに掲げてあることも多く目にしています。)
食に関するものすべてたいしてこの言葉を使うことができるようで、結構汎用性が高いので、使い勝手の良いのかもしれません。
テレビや雑誌で多用される例として、’グルメ特集’などどいう表現でおおっぴらに使われています。
今ではYahooのカテゴリでも現れています。

「歌姫」
特にフジテレビ系列の朝の情報番組で頻繁に耳にします。
貴女子に対する、尊敬の意味も含めて”姫”という言い方があり、また接頭語として使い、かわいらしい、小さいという意味も付加します。(姫リンゴ等)
確かに他の語に付いて’女性の’という意味をあらわすのですが、それは彦と対になっているものです。氷川某に対し歌彦とはいわんだろう・・・
女の歌い手に対しては誰でもかれでも使っています。多用しすぎです。
美空某にさえ使っている例もありました。
ニュアンスとして、それは違うだろうという感じです。
そのうち亡き淡谷某までにも及ぶのではないかと危惧しています。

「カリスマ」
神、英雄、指導者などがもつ超越的な吸引力、そんなものに使われる表現であると思っていました。
これもテレビから。
大型書店の戦略などという趣旨で、番組を構成していました。
その中で、ジュンク堂に対するコメントです。
「この書店にはコーナーごとに、専門分野に詳しい”カリスマ店員”がいるのです・・・」
俄かには意図することが理解できませんでした。
大衆から崇められる、思想的先導者が一書店にいるのか?
現代では書店もすごいことになっているもんです。
カリスマという言葉もずいぶん地位が堕ちてしまったものです。

「徒然」
あまり気安く使っていけない言葉だと思います。
兼好法師にたいして失礼です。
最近のブログの隆盛により、誰でも気軽に公に向かって意見することが可能になりました。
そんな中多く目にするキーワードに「徒然」があります。
吉田兼好が書くからこそ徒然草なのであって、
凡人が猫も杓子も徒然といいつつよく言えば雑感、ほとんどが独白のようなものを書きなぐっているのは、www資源のいたずらな消費に思えます。
いわば「徒然」は無計画のいいわけみたいなものばかりです。

言葉の乱れという風に簡単に批判する輩はいるけど、波状攻撃的にメディアで使っていれば間違ったように刷り込まれてしまうのも当たり前だと思います。
それは元来間違って覚えようとしているのではなく、大量の間違った情報を垂れ流すマスコミ、メディアにこそ責があるのです。

最後にカンボジアのことわざを引いておきます。
言葉が第一、数は第二。
(カンボジア、今ひとつ意味がわからんw)

せまく、人気のない道を歩いている。
すると右前方の交差点から、妙齢のご婦人が。
私との距離およそ4メートル。私は道を譲ろうと斜め左に方向を変える。
しかし、彼女も一瞬遅れて私と同じ方向に。
再び私は道を譲ろうと、今度は斜め右へと方向転換。
だが、ああ何ということだろう。
またしても彼女は私の進路をふさぐ。
私にはわかっている。
彼女も道を譲ろうと四苦八苦し、 それがかなわず気まずく、そして心を痛めている。
互いに苦笑い。なんかうまくいかない・・・
一体現実を把握している者はいるだろうか。
正しい道の歩き方はあるのだろうか。
kurumahahidari
~人は右、車は左。
幼少の頃より学校などでも盲目的にそう唱えさせられていたせいか、道の右側を歩行する人が多いようです。
はたして右側通行は日本の交通事情に適しているのでしょうか?
hidarigawatuukou
~駅に至る陸橋で撮影したものです。
関東地方では、公共交通機関の歩道等は、左側通行を推奨しているようです。
となると、一般の道路は右側、駅の通路は左側通行では、人の流れはスムースではな いでしょう。人々も混乱してしまいます。
実際には、歩行者は道のどちら側を歩こうが、車道を歩こうが、信号無視をしようが、法により罰せられることはないのですが、周りの状況に気を配らない人が多くいるのが現状です。
道の真ん中で立ち話をしていたり、駅の階段に腰を下ろしていたりするのは論外ですが、多くの人が、おもいおもいに何の意思もなく歩いているものだから、こちらはそれを避けようと右へいったり、左へいったり。いつしか’ジグザク’に歩いている自分に気づくこともあります。

もしも歩行者が右側通行をしていたら。
migi
~上の図は歩行者専用の歩道のない道の一例です。
ここでよく起こる事故。
前方の交差点を右側通行により曲がってきた歩行者(あるいは自転車)が、 自転車との出会い頭の衝突に見舞われるケースです。
車はもちろん左側通行ですが、実は自転車も道路交通法によれば、それ自体「軽車両」と言う区分になっており、車道の一番左側を通行すべし、と明文化されています。
歩道における通行に関しては通行可能な場所が、”自転車通行可”という標識で示されています。
(かつての劣悪な車道の状態を考え、自転車が車に混じり通行するのは危険だということで、当面の措置として比較的広い歩道においては通行を許可することになったそうです。)
法律によりその通行帯が明文化されていないのは、ひとり歩行者のみと言えます。

アメリカ合衆国やヨーロッパの国々で、はからずも徒歩での移動を強いられる時があります。
そのさい、歩道なりを歩いていると、どうも、スムースに歩けない自分を発見する時があります。
私自身は、しょっちゅう自転車に乗っていることもあり、徒歩の際も、左側を通行するように自然と体が慣らされているようなのですが、それと同じように、かの地の人々も右側通行に慣れてしまっているようなのです。
つまり、車や自転車 が走行するのと同じ 通行方向をとるのがどうも自然らしい、という感覚が根付いているようです。

そこで、提言させてください。
車も、自転車も、人も左を通行する。これが日本の正しい歩き方であると。

”何も歩き方までとやかく言われたくない。そんなのは、個性の尊重に対する侵害以外のなにものでもない”そうおっしゃりたい方もおられるでしょう。
(何か教育の現場で、盛んに戦わされた議論を思い起こします。いまや’ゆとり’、’個性’を重視した教育の実践が、規律や道徳の消失を生み、犯罪が多発しているのは自明のことなのですが)
まあ個性を発揮する場所はほかにいくらでもありますから。
ただでさえ、外見は個性的に見えても、中身は画一的な考え方をする人たちばかりなこの国なのですから。
つづく

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